釈迦の悟りとニーチェ論
苫米地さんのUstreamの録画を見て、これは書かなくてはいけない。
と云う事が出来てしまった。
びっくりした。
以前、ブログを読んでくれる知り合いに言われた事がある。
「原始仏教的な視点に行き着いたのか?」と。
私はキリスト教で育てられたので、仏教は五木寛之が書いている以上の事は分からない。
そこで原始仏教とはなんぞや。と調べました。
結果は、近いんだけれどちょっと違う。
インターネットで得られる情報では何とも言えないし。
と云うのがその時の答え。
それから原始仏教と云うものが気になっていて、今日見た動画で答えが出ました。
あー!スッキリ!
苫米地英人「仏教・釈迦の悟りの内容とは?」/博士の自由な対談 (映像版) [ 2010年6月17日 ] - YouTube
水道橋博士が出ているのが観たい!
最近は「博士も知らない日本の裏」とかその類いのネット番組のバックナンバーを観ていて、どれも面白いです。
また番組企画してくれないかしら、最新情報観たい。
それは置いといて、
この苫米地さんが言う理屈が私の考えとバッチリ合っている。
バッチリ!
そして私が一番言いたいのはですね、
私がニーチェを読んでその考えに至ったと云う事。
釈迦の悟りとニーチェの怒りの鉄拳、もとい哲学は私と云うフィルターを通すと同じ事を言ってる。
釈迦で言うところの悟り、これは、優しさに包まれたなら。バージョンです。
ユーミンね。
ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」で読み取れる人柄、これは、辛い気持ちに包まれている状態。
二人共、とてつもない愛が大前提として有り、本質的に博愛である。
また、これはなかなか難しい問題だけれども、動画の中で最後に話す事。
信じるから神がいるのであって、神がいるから信じるのではない。
実はニーチェもこれを暗に示しているし、彼は神を否定したのでは無くて、宗教のトップとしての存在、若しくは宗教概念としての神と信仰を否定している。と私は読み解いた。
例えば彼が日本に来て、この辺りには八百万の神様がいますのや~。
なんて日本昔話の様にほのぼの言われたら、それを否定はしないだろう。
強い言葉はセンセーショナルで記憶に残り易い。
未来の人に向かって語りかけているから、わざとやっているんだろうと思う。100年200年先の人が読んでくれますように。と
ニーチェの本当に伝えたかった事は、言葉の裏に有る。
そしてそれは、あまりにも人間的で、聖書的なのだ。
「この世界の片隅に」を観たんですが、この映画のメッセージと同じ様な事です。
心から悔しくて、何処にもやりようの無い辛い事があるよね、でも何気ない日常を大切に積極的に生きようね。
これを各々の人生の色で肉付けしたものとでも言おうか。
細かいディテールに拘るならば、ここで思想の闘いが始まるんだけれども、
ディテールに拘らないのが、ツウの嗜みってやつだ。
でも今手元に本が無いから、内容に関わる事は正確に書けない自信がある。
そもそも、ツァラトゥストラ、聖書、仏教のやつは何てんだろう、知らないけれど。
どれにしたった翻訳の時に執筆者の意向と違っている可能性が大いにあるから、正確な答えなんて存在しないのさ。
なのでこれ以上は書くまい。
私は物心付いた時から教会に通って、日曜学校は中学に上がる迄行っていた。
幼い頃から母に連れられて礼拝を聞いていて、1番身近でよく読んだ本が聖書。
同じ様に聖書が身近だったニーチェが何に疑問を感じ、何故神は死んだという表現を使ったのか。
本当は言いたくないのに言わずに居られないのである。
何故か。
純粋な気持ちで聖書を読み、話を聞いた人しか理解が難しいと思う。
音楽を愛し、鞭打たれる馬を見て心が壊れるのだから、よほど優しい人なのだろう。
だから私は今のところニーチェ派だ。
聖書の言葉や例え話は好きだけど、端々でエログロなのが気になって参考書に留めたい。
もし仏教に造詣が深ければ釈迦か孔子辺りに興味が在るかも知れない。
皆自分の苦悩から解放されるべく取り組んだ結果である、伝え方が違うだけなのだろう。
どちらにしても、最近思うのは
無知は暴力だ。
それでは皆様、おやすみなさいませ。